仕事を捨てて幸福の科学へ 真摯だった発足記念講演会

《仕事を捨てて幸福の科学へ飛び込む》


私はまだ〈幸福の科学〉に夢中というほどではなかった。

当時 私は、世田谷の環八通りに自動車販売会社を持っていた。

1967年の3月3日に、ほとんど無一文でスタートしてから19年。

一度の赤字もなく、順風満帆で伸びてきた会社である。

二年前にはそれまでの借地を買い、四階建ての自社ビルも新築した。

「どうしたら関谷さんみたいになれるかね」

仲間からはいつも羨ましがられていた。

ビルもさることながら、小さいながら楽しい職場であることが私の誇りだった。

お客さんも、友人の家のようによく遊びにきてくれた。

〔次の3月3日は、20周年記念だ。関係者を呼んでドーンと花火を打ち上げてやろう〕

そう思ったとき私の心はすでに ひとつの決意を秘めていた。

3月3日、20周年記念パーティーの当日。

青山ダイヤモンドホールで開いた祝賀会には200名もの人が集まった。

その中に大川隆法と中原幸枝の姿もあった。

自動車業界の社長さんたちは、まだ無名の大川隆法には当然 目も留めなかった。

パワフルな実業家たちの熱気あふれる中で、二人はやはり異色だった。

二人がたたずむそこにだけ、静かな、清涼な空気が漂っているように見えたものだ。

パーティーは愉快に楽しく進行した。

琴とバイオリンの二重奏あり、木遣り歌あり。

木遣り職人のショーには、取引銀行の支店長が飛び入もする盛り上がりだった。

最後に、感謝の意をあらわすために私が壇上に立った。

「みなさんのおかげで、我が社もここまで成長することができました。

ところで、私には この人生でもうひとつやってみたいことがあります。

残りの人生は、それに打ち込んでみようと思います」

誰も予期しない爆弾発言だった。

友人や知人、業界仲間は一斉に驚きの声をあげた。

順調な仕事を放り出し、五十男の関谷が、いったい何を始めるのか。

誰もが不思議がった。

この人生でもうひとつやってみたいこと。

それを明言したら、驚きはさらに大きくなっただろう。

振り返ってみれば、経済的安定のみを求めて生きてきた私の半生である。

その結果、ひと通り必要な財産は造りあげた。

豪邸とはいかないが、そこそこの住宅を建て、四階建ての粋な自社ビルも持てた。

人間関係にも恵まれたほうだろう。

(これで充分さ。このうえ何がほしいのだ)

何度も自分に問いかけた。

当時の私は互いの我がままから妻や子供と別居し、別々に生活していた。

(気楽な独り暮らしじゃないか。

金もあるし、ある程度の社会的地位もある。

男なら、一度は夢見る生活だぞ。

何が悲しくて、居心地のいいポジションを投げ捨てるのだ)

私の「常識」はそうささやいていた。

しかし、私にはこの人生でもっと大切な仕事が待っていると感じられた。

その仕事を成し遂げるために、今までの幸せが与えられていたのではないか。

妻や子供との別居さえ、そういう天の はからいではないのか。

20周年記念パーティーでの爆弾発言の裏には、こんな自問自答があった。

私は決して空想的な男ではない。

地に足のついた生活をしてきたし、現実的な人間関係を何より大切にして生きてきた。

だが心の底には、この現実を超える素晴らしき価値が、必ずどこかにあるはずだという漠然とした思いがあった。

顔を出してみた宗教団体も、今までに二つほどあった。

けれどご利益専門の宗教は弱い人間の集まりとしか思えない。

私が求めるものはそこにはなかった。

漠然とした思いが〈幸福の科学〉の創設に加わることで急にハッキリした形をとり、私自身にも信じられないほど膨らんできたのである。

この年、87年は〈幸福の科学〉の胎動期だった。

活動推進委員が選ばれ、委員を中心に会の基礎造りがおこなわれた。

委員に任命されたのは、前川節、細田勝義、高橋守人(後に退会)、太田邦彦(後に退会)、そして私の五人である。

そこに、秘書室長の中原幸枝を加えた六人が、大川主宰を囲んで会の方針を話し合った。

〈幸福の科学〉は次第に形を成していった。

お気づきのように、中原と私を含めた初期の幹部六人のうち、すでに四人が退めている。

四人という数が多いか少ないか、私にはわからない。

しかしホンモノの神理なら、どうして苦楽をともにしながら会をつくりあげた仲間の半数以上が去っていかなければならないのか。

これでは大川が豪語するように、すべての日本人を会員にするなど到底不可能だろう。

不可能というより、誇大妄想と呼ぶほかない。

この時期、私はメルセデス・ベンツの新車を購入した。

もちろん、会の活動に役立てるためである。

講演会のたびに主宰の送り迎えをし、徳島在住の顧問・善川三朗の上京に際しては、羽田からホテル、ホテルから会場へと文字通り大車輪の活躍だった。

そのたびに私が運転した。

人間とは面白いものだと、つくづく思う。

何が人生を変えてしまうかわからない。

このベンツが、私を全面的に〈幸福の科学〉へと走らせるきっかけのひとつになったのである。

何を求めて私はあんなに走ったのだろう。

かつて自社ビルの工事が始まり、クレーン車が最初の鉄柱を目の前で設置したときも、

その夜の棟上げの宴席で仲間におだてられたときも、特別嬉しいとは感じなかった。

ニコニコ顔で酒をついでまわりながら、心のどこかで強く思っていた。

(これが何だというのだ。おれの一生は、こんなことのためだけにあるんじゃないぞ)

2000人いる東京の同業者のうち、自社ビルまで建設したのはたった三人と言われていたのに。


《真摯だった発足記念講演会》


かねての予定通り、徳島から善川三朗顧問が上京してきたのは、会社の創立20周年パーティーが終わって三日後、3月6日のことだった。

その二日後には〔幸福の科学発足記念講演会〕が迫っていた。

ここで大川主宰と善川顧問の関係に触れておかなければならない。

すでにお話ししたように大川隆法の初期の霊験集は、大川の著作としてではなく、善川三朗編として上梓されている。

善川と大川の兄にあたる富山誠の質問に、大川に降りた日蓮や空海の霊が答えるという問答形式である。

世間では、霊言がホンモノの霊の言葉なのか、それとも大川の言葉なのかを取り沙汰している。

だが私にはどちらでもよかった。

この点では中原幸枝や、ほかの初期の会員より醒めていたのかもしれない。

霊の言葉か自分の言葉か、たぶん大川隆法自身にもわからないだろう。

霊言集には、これまでの聖人の教えやその意義が、まったく新しい角度から光をあてられ、万教帰一、ただ一つの神理という視点で、わかりやすく書かれていた。

この世的な価値である金とか名誉、地位を超える壮大な霊的世界!

それで充分だった。

大川隆法を先生と仰ぎ、素晴らしい神理をもっともっと学んでみたかったのである。

ところで〈幸福の科学〉に関心をお持ちの方はご存じと思うが、善川三朗というのは、大川の父、中川忠義のペンネームである。

富山誠は兄の中川力にあたる。

理由はわからないが、大川は意識的にこの事実を隠していた。

親子ではあまりにも世俗的だ。

四国のどこかで、たまたま善川が出会った不思議な霊能力者。

そんな神秘的な演出がねらいだったらしい。

このことは、大川のごく身近にいた私たちでさえ、しばらくは知らなかったぐらいである。

87年9月に一通の手紙が私の会社へ送られてきた。

差出人は「幸福の科学」拝読者となっていた。

〔大川隆法という人物が同じ四国出身というだけで素性がわからないことに「不思議だなぁ」と思い「人の魂を救う者がそれで責任が果たせるか」と思っていました。

また「大川隆法」という人物と「善川三朗」そして「富山誠」のこの三人がいかにも劇的な出会いをされたかのように言うが、それは本当だろうか〕

疑問を抱いた拝読者氏は、労もいとわず大川の身元を調べ、その結果を驚きとともにこんなふうに書いている。

〔私も驚きました。

本当に親子だったのです。

なぜ心・魂等を説く人間が自分の素性を隠して、実の父と子であることを隠してこんな芝居をする必要があるのでしょうか〕

さらにご丁寧にも中川家のあまりかんばしくない近所の評判まで書いてある。

会が大きくなれば、当然こんなことも起こってくる。

大川も善川も、霊言集の出版を思いついた頃は、今日のような大教団をつくるなどとは考えもしなかったのだろう。

それで二人の関係を劇的に神秘的に創作してみた。

たぶん、そんなところだろう。

話をもとへ戻そう。

中原幸枝に依頼され、講演会の二日前に徳島から上京した顧問を羽田に出迎えた。

純朴な田舎の老紳士、というのが善川三朗に対する私の印象である。

このおっとりした先生が、あのようにすごい神理の本を書かれるのか。

それが私には ひどく嬉しかった。

さすがにホンモノは淡々としていると感じ、いっぺんに好きになった。

(神理を求めたから、このような偉大な先生と直接お話しすることもできる)

そう考え、自分はなんという幸せ者だろうと感謝した。

私は大喜びで料理屋へ接待した。

(明日は、中原の自宅にできた事務所も見ていただこう。

その次の日は、いよいよ記念すべき講演会だ。

いったいどんな講演会になるのだろう)

嬉しさで胸がワクワクしていた。

翌日の夜は、東京では珍しい大雪になった。

しかし講演会当日の朝はカラリと晴れ、降り積もった雪に朝の陽が眩しく反射していた。

雪に気をつけながらベンツを走らせ、まず中原の自宅へ。

そこで中原を拾い、大川、善川両先生を迎えに行くはずだった。

しかし、待っているはずの中原の姿がない。

玄関のベルを押したが返答もない。

待ち合わせの時間は刻々と近づいてくる。

しかたなく、先に両先生を迎えに行った。

後になってわかったことだが、緊張のあまり前夜寝つかれなかった中原は、私が押したベルの音にも気づかず、まだぐっすりと寝ていたのである。

会場の牛込公会堂には400人ほどの聴講者が入っていた。

400人!

大成功ではないか。

大雪を押して集まった人々の熱意に私たちは感動した。

〈幸福の科学〉の初期の講演会では、今と違い、講師はいつも大川隆法、善川三朗の二本立てだった。

しかしいつ頃からか、二人が同じ演壇に立つことはなくなった。

父親は父親、息子は息子で別々に講演会を催している。

その経緯に関して、私の知ることは後で書くことにしたい。

今、当日のプログラムをめくってみると


開会の挨拶……太田邦彦

講演「幸福の科学発足によせて」……善川三朗先生

講演「幸福の原理」……大川隆法先生

閉会の挨拶……前川節

司会……中原幸枝


会は滞りなく進んだ。

大川も中原も、今回は座談会のときより落ちついていた。

いい講演会だった。

広い会場が水を打ったように静まり返り、誰もが真剣に耳を傾けていた。

子どもたちが騒ぎ回ることもなかったし、感極まって泣きだすなどということもなかった。

「今日は先生から、こんな色の光が発していた。私にはちゃんと見えたが、あなたにはあれが見えましたか」

そんなことを自慢げに話しながら帰っていく人も、当時はまだいなかった。

みんなが真摯に道を求めている。

そういう引き締まった空気がピーンと支配していたのが初期の講演会である。

この夜の食事は、楽しい思い出として残っている。

みんなが会の成功を喜び、次回はもっと盛りあげようと誓い合った。

はじめて会から費用をいただいての会食でもあった。

会員からの貴重な会費だと思うと、少し心苦しかった。

しかし、その心苦しさにも私たちは次第に慣れていった。

翌日は、また善川をホテルへ迎えにいき、首都高を羽田まで送った。

一昨日の雪がまだ あちこちに残っていた。

講演会の成功に善川はとても満足しているように見えた。

こうして私は三年半のあいだに、羽田と西荻窪を30回ほど往復しただろうか。

それは決してイヤな仕事ではなかった。

〈幸福の科学〉の発足時に、こうして誰にも見えないところでお手伝いできたことを、私は今でも誇りに思っている。


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虚業教団

30年間、教勢拡張と集金だけだったカルト。 今尚、植福と称する布施を搾り取られ続ける信者たち。 教祖一家、その愛人たちは、贅沢三昧の日々を送っているというのに。 人間関係は破壊され、家庭も崩壊。 貢ぎ疲れ、極貧生活を強いられる信者たちの 洗脳解除を祈念し、ここに関谷氏の 「虚業教団」をコピーさせて戴きます。

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