ワンマン社長の大川隆法 高橋信次はなぜ霊言したのか

《ワンマン社長としての大川隆法の力量》


〈幸福の科学〉における大川隆法の管理術は、もしかすると中小企業の経営者にはいい参考になるかもしれない。

それは冗談とするにしても、そう思わせるほど鮮やかな手腕を彼は振るった。

ひとつは、優秀な才能を発見し、どんどん抜擢していく人材の登用法である。

この会では、すべてがランク付けされる。

この世界そのものが、十次元とか十三次元にもおよぶピラミッド型の世界なのだ。

私たちの魂は、その次元を一つでも上へ昇るために修行している。

その修行というのは、大川の、あるいは大川を通して現れた霊の説く神理を学習することである。

学習さえすれば、高次元へ行くことができる。

〈幸福の科学〉では、実践は必要なかった。

愛を実践するのでなく、愛とは何かを学ぶことでより高い次元へ進む。

その学習成果を、試験・レポートというかたちで絶えずチェックされるのである。

この試験・レポートが、優秀な才能の発掘に役立った。

頭のキレる者、営業センスのありそうな者、人脈の豊かな者はどんどん登用していく。

同時に、会員の獲得で好成績をあげた人間も次つぎに重く用いられた。

私も、大きな顔で批判する立場ではない。

私の退会時にいた100人ほどの本部職員は ほとんど私が直接面接し、採用を決めた人たちだったのだから。

会を退めたことも、こんな文章を書くことも、彼らへの裏切りになるとは重々承知している。

その罪も自覚している。

だが真実を書かずに済ますほうが、さらに大きな裏切りではないか?

人材登用もさることながら、切り捨てや左遷、格下げのほうに、主宰先生はいっそう鮮やかな手並みを見せた。

何かの方針を実行に移す場合、大川自身は決して表舞台に立たないことはすでに述べた。

必ず幹部の一人を通して指示を出す。

もし失敗しても幹部の責任となり、大川はむしろ同情される立場になる。

こういう自己保身を図るのも、教団トップとしては止むを得ないことかもしれない。

絶対である教祖に、間違いは許されないのである。

そのいい例が、フライデー事件だろう。

写真週刊誌フライデーに、大川にうつ病の病歴があると載ったとき、対抗策を練るために幹部に招集がかかった。

紀尾井町のビルに40人ほどが集まり、会議が開かれた。

講談社 断固許すまじという武闘派と、たかが写真誌の根も葉もない中傷など放っておけという穏健派に分かれ、カンカンガクガクの議論がおこなわれた。

議論は白熱するばかりで、なかなか決着に至らない。

詳細は後に譲るが、その時大川が打った手も、一人のキーマンを通じて全体を動かすという方法だった。

すでに二年前に退会していた私は、その場にいない。

これは、そこに参加していた複数の人から聞いたものであるとお断りしておかなければならない。

しかし話を聞きながら、私にはその光景が見えるような気がした。

相変わらずである。

以前とまったく同じ自己保身のテクニックが使われている。

講談社に対する挑戦が、世間の反感を買うかたちで挫折した今、その幹部は詰め腹を切らせれるように、◯◯支部にまわされている。

またテレビの討論番組にも出演して大いに気を吐いた大沢敏夫も謹慎を命じられているという。

私のいた頃から、大川は幹部職員の首を頻繁にすげ替えた。

何かあると、すぐに地方の支部へ飛ばされる。

そこで会員獲得に功績があれば、また本部へ呼び戻す。

ひどいときは、三カ月も置かずに配置替えになる。

一人の人間を長く身近に置くことに、何かの恐れを抱いているかのようであった。

もし、私があのまま会に留まっていたら、この第一の大黒天も、どこかの支部へ飛ばされていたに違いない。

支部長と本部の最高幹部では、天と地ほどの違いがある。

一方は、会員集めや寄付集めに奔走しなければならない。

しかし他方、私たちは、本部の大先生である。

地方へ講師として行けば、下にも置かない歓迎を受ける。

女性にとりまかれ、握手やサインまで求められる。

三日やったらやめられない、というところだろうか。

しかし、信じ切れない宗教団体の幹部でいることが、私には苦しくてならなかった。

たとえどんなに給料をもらおうと(89年当時「来年は年収1000万にしてやるぞ」と主宰先生はおっしゃっていた)

本部の大先生といかに崇められても、自分が信じ切れないものを信ぜよと説く。

これ以上の拷問はないのである。


第4章 愛なき教団だから「愛」を説くのか


《高橋信次はなぜ大川陸法に霊言したのか》


1988年の春、はじめてGLAから正式な抗議文が送られてきた。

内容は「繰り返しニセ信次先生の本を出されては困るから止めてほしい」というものだった。

それを読んだ私たちは「なにがニセ信次だ!」「信次先生の霊が語っておられるのだぞ」と大いに憤慨した。

しかしGLAが抗議するのもあたりまえだろう。

86年12月に


『高橋信次霊言集』を出して以来、大川は

『高橋信次の新復活』87年5月

『高橋信次霊訓集』三巻 87年6月、8月、10月

『高橋信次の天国と地獄』88年1月とたてつづけに高橋の霊が登場する本を出版していた。それ以降も

『高橋信次の新幸福論』

『高橋信次のUFOと宇宙』二冊88年6月

『高橋信次のユートピア論』88年8月

『高橋信次の大予言』88年9月

『高橋信次の心の革命』88年11月

『高橋信次の愛の讃歌』88年12月と続く。


宗教学者の島田裕巳の調べによれば、その霊言集は16冊になり、大川に降りた回数も70回になるという。

この数は、ほかの霊とくらべて群を抜いて多い。

〈幸福の科学〉を特徴づける最も重要な高級霊なのである。

GLAとしては、当然心中おだやかではない。

亡くなった自分たちの教祖、神とも崇める教団創設者が、こともあろうに何の関係もない他教団に出現し、生前には聞いたこともないような話をしだしたのだから。

GLAというのは〔God Light Association〕の略で、1969年に高橋信次が設立した「大宇宙神光会」を母体とする。

高橋は霊界と自由に交信することができ、その教えでは、顕在意識と潜在意識との間にできてしまった想念帯の曇りを反省によって取り去れば、

誰でも神とストレートにつながると説いている。

この思想はGLAの枠を超え、精神世界に関心を持つ人々に少なからぬ影響をおよばした。

善川や大川も例外ではなかった。

大川の『太陽の法』によると、彼がはじめて霊的体験をしたのは高橋の『心の発見』を読んでいる最中だったという。

しかし高橋は、わずか7年の後の1976年、その全盛期に自らの予言通り突然世を去った。

残されたのは、当時まだ19歳のお嬢さん、高橋佳子である。

偉大な指導者を失ってGLAは混乱し、分裂を重ねた。

一時は50万とも言われた信者や高橋の信奉者は、宙に迷うかたちになり、その数は1万数千にまで激減している。

そんなとき、不意に別の教団で開祖の霊がしゃべり出した。

むろん、宙に迷っているGLA信者や信次ファンを、取り込もうとする大川の戦略でもあったろう。

たとえば、中原幸枝などは、敬愛する高橋信次の面影を求めて大川に近づいた一人であった。

というよりも中原の存在が、大川に高橋信次の霊言を思いつかせたと言ったほうが たぶん正しい。

もっと正確に言えば〈幸福の科学〉の高級霊団の中心である高橋の霊は、中原の求めに応じて霊言を始めたのである。

ここで大川と中原の出会いについて触れておこう。

中原は高橋の存命中からのGLA信者だった。

幹部のような特別の立場ではないが、一会員としてずいぶん可愛がってもらったらしい。

高橋信次という人は、信者と気軽に接することを好んだようだ。

このあたりは、一般会員の前にめったに現れず、常に本部の奥にいて神秘のベールにくるまっていたい大川とはずいぶん違った。

自分の霊的能力、信仰の深さに対する確信の差だろうと言ったら、主宰先生にはこっぴどく叱られそうである。

講演会か何かの後、幹部との面談待ちをしているところへ、思いがけず高橋がひょっこりやってきて「次の人は誰?」と声をかけた。

たまたま〔次の人〕が自分であったおかげで信次先生の知遇を得た、というようなことを彼女は語っていた。

中原の父親がガンで余命幾ばくもないと宣告されたときは、ガンにはクマザサの葉が利くというので、わざわざ自分でとってきて届けてくれたという。

それで思い出すのが、大川の〔顔見せ興行〕である。

あれほど一般会員との接触を嫌っていた大川が最近になって、会員と親しく接する機会を正月に設けた。

一人五分前後の持ち時間で、本尊はお顔を拝みたい人がベルトコンベアー式に次々と入れ代わる。

しかし、そのためには何万かの拝観料を包まなければならない。

この話を聞いて、私は暗澹たる気持ちになった。

大川の霊言集を読み、中原はそこに亡き高橋信次の思想と通い合うものを感じたらしい。

これは決して不思議ではない。

父親の善川三朗が高橋の影響を受けていたし、本人も最初の霊的体験は『心の発見』を読んでいる最中だったと書いている。

霊言集の中にGLAの元信者が、今は亡き教祖と似たものを感じたとしても少しもおかしくない。

そこで中原は「大川隆法というこの霊能力者になら、信次先生の霊が降りるかもしれない」と考えたのである。

歴史に〔もし〕はないという。

しかし、敢えて問おう。

もし中原がそんなふうに考えなかったら、はたして〈幸福の科学〉は生まれただろうか。

亡き高橋の面影を求めて、中原は霊言集の出版元である潮文社を訪ねていく。

何度目かに訪ねたとき、ちょうど『孔子の霊言』の出版のため大川が上京してきていた。

「信次先生のご逝去以来、ようやくの思いで真に心の師となる人を見つけた」

〈幸福の科学〉の発足前後に、中原はよくそう言っていた。

中原幸枝とのこの出会いが、大川隆法に『高橋信次霊言集』を書かせたと私は推測している。

なぜなら潮文社から最後に出たこの霊言集は、それまでの七冊とはあまりにも違っているからである。

まず善川というインタビュアーがいなくなり、大川の……いや霊の独自に変わった。

また高橋信次という名前じたい、それまで霊言していた日蓮や空海、キリスト、ソクラテス、孔子、坂本龍馬、卑弥呼などの中に置くと、

明らかに異質なものを感じる。

歴史の教科書には必ず登場するような有名人の霊言集がつづいていたところへ、ほんの一握りの人しか知らない、

しかも死後10年にしかならない人物が突然出現したのである。

内容のほうも「集まれ、団結せよ」と説くアジテーション風に急変していた。

霊言集の日付によると、トーメンを退職した翌日の7月18日に「高橋信次です」と高橋の霊がひょっこり降りてきたことになっている。

大川は『高橋信次霊言集』の まえがきで、次のように書いている。

「1986年7月、私が神理伝道のために勤務していた総合商社を退職するや否や、高橋信次氏からの、

ご自身の現在の考えを世に問いたいという強烈な願いが一条の光となって私の胸を貫きました。

私は同氏の熱意に打たれて、ついにこの書を世に問う決断を致しました」

しかしこうして見てくると、中原の影響とまでは言わないが、彼女との出会いをきっかけとして『高橋信次霊言集』が著わされたと結論するしかない。

しかも中原を前にしてテープに吹き込まれたものとなれば、この霊言集の産みの親はまさしく中原幸枝なのである。


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虚業教団

30年間、教勢拡張と集金だけだったカルト。 今尚、植福と称する布施を搾り取られ続ける信者たち。 教祖一家、その愛人たちは、贅沢三昧の日々を送っているというのに。 人間関係は破壊され、家庭も崩壊。 貢ぎ疲れ、極貧生活を強いられる信者たちの 洗脳解除を祈念し、ここに関谷氏の 「虚業教団」をコピーさせて戴きます。

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